2009'10.02
Town scape | Mitsubishi ICHIGOKAN.
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東京大学の本郷キャンパス構内へ或る偉人立像が建立されている。工学部一号館前の現存ブロンズ像はジョサイア・コンダー氏:JOSIAH CONDER、明治10年(1877)日本政府から招聘され来日した弱冠25歳のお雇い外国人建築技師だ。そして当時は蘭語主体だった為に英国人にも拘らず蘭語読で『コンドル先生』と親しまれ、此の愛称が定着したようである。当時巷では薩摩士族が反乱起こした『西南の役』勃発年。
J.コンダー博士は来日後、多くの注/1公共建築や私邸等の設計着手すると共に工部大学校(現東大工学部建築学科)教授としても教鞭を取り、後に日本銀行本館や東京駅設計した辰野金吾氏など近代建築創成期の錚錚たる日本の建築家達を育成し、日本建築学界の礎を築いた功績は甚大である。
其の後官職は退いて、建築設計事務所を開設し岩崎家との縁から三菱財閥の顧問になった関係も在り、当時は『原っぱ!』だった丸の内地区へロンドン官庁街如き近代的ビジネス・タウンを建設する計画へ、参加する事になる。
ソノ建物基本構想が、軒高50尺(約15m)三階建ての赤煉瓦組積造で屋根は急勾配のスレート葺きとした。そうして丸の内最初のビル三菱一号館は明治27年(1894)丸の内二丁目に竣工後、引続いて二号館及び三号館と建設計画は進行し『一丁倫敦』と呼称される、ロンドン風の官庁街が明治時代に形成されていったのである。
以降、赤煉瓦建築のロンドン風官庁オフィス街は幾多の変遷と共に、其の後民間へ移行したもののそのまま残置活用されていた、しかしながら残念にも高度経済成長期の時代潮流には抗えず築後76年目にはその役割を終えたのか?昭和43年(1968)には惜しまれつつ取り壊されてしまった・・・・。
Mitsubishi-ICHIGOKAN MUSEUM.
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Entrance&Windows.
ところが2005年頃から再生復元計画案が模索され、J.コンダー博士が設計した赤煉瓦造りの『三菱一号館』が当時場所のまま再生復元工事が行なわれ、用途新たに美術館として甦る事になった、初竣工からは115年経過し取壊されてからも42年経つ。
聴き及ぶ処では当時の保管部材やレンガ等は多少存在したようであるが、復元数量を確保する為煉瓦については中国の製造工場へ制作依頼し、竣工時と同様製法で250万点程の数量を忠実に再現した煉瓦を製造したのだそうだ。
サスティナブル・デベロップ(持続可能開発)は既存の再生を意味するが、其の究極は無の状態からスタートする復元再生なのである。日本の建築業界近代史において、復元再生の専門設計者は望ましい人材が揃えられているとは云い難い、しかし欧米には専門的人材教育機関も存在し専門デザイナー達が数多く輩出されている。
日本にも古式伝統建築界では『宮大工』に代表されるレストア!?関係者の存在は周知である、したがって此の『三菱一号館』が歴史的近代建築レストア職の人材育成におけるマイル・ストーンとなる事を祈念して止まない。また近年開発のヒューマン・スケールを越えた建築群との比較を恐縮ながら敢えて云わせて頂くと、三菱一号館には先人智恵から伝承された『風合や風味や温もり』の雰囲気が醸し出されており、懐かしさと云うよりも現代や未来へ必要な何か?と云う印象を感じたのだが、其の様な体験を感受したのは私だけではないのかも知れない?
用 途 :芸術作品展示美術館・物販店舗・飲食店舗。
事業主体 :三菱地所株式会社。
建築設計 :(株)三菱地所設計。
建築施工 :(株)竹中工務店。
延床面積 :6000㎡/1800坪。
構 造 :赤レンガの組積造建築。
階 数 :地上3階・地下1階。
展 示 室 :20室。
工期年月 :2007年2月着工~2009年4月(プレ・オープン)。
オープン :2010年春季に正式開設。
館 長 :高橋明也氏。
注1/ 鹿鳴館、上野博物館、横浜山手教会、三井家倶楽部、ニコライ堂/ハリストス正教会東京復活大聖堂、島津忠重邸/現清泉女子大学、古河虎之助邸/現古河庭園、などの設計を御担当されたのである。
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東京大学の本郷キャンパス構内へ或る偉人立像が建立されている。工学部一号館前の現存ブロンズ像はジョサイア・コンダー氏:JOSIAH CONDER、明治10年(1877)日本政府から招聘され来日した弱冠25歳のお雇い外国人建築技師だ。そして当時は蘭語主体だった為に英国人にも拘らず蘭語読で『コンドル先生』と親しまれ、此の愛称が定着したようである。当時巷では薩摩士族が反乱起こした『西南の役』勃発年。
J.コンダー博士は来日後、多くの注/1公共建築や私邸等の設計着手すると共に工部大学校(現東大工学部建築学科)教授としても教鞭を取り、後に日本銀行本館や東京駅設計した辰野金吾氏など近代建築創成期の錚錚たる日本の建築家達を育成し、日本建築学界の礎を築いた功績は甚大である。
其の後官職は退いて、建築設計事務所を開設し岩崎家との縁から三菱財閥の顧問になった関係も在り、当時は『原っぱ!』だった丸の内地区へロンドン官庁街如き近代的ビジネス・タウンを建設する計画へ、参加する事になる。
ソノ建物基本構想が、軒高50尺(約15m)三階建ての赤煉瓦組積造で屋根は急勾配のスレート葺きとした。そうして丸の内最初のビル三菱一号館は明治27年(1894)丸の内二丁目に竣工後、引続いて二号館及び三号館と建設計画は進行し『一丁倫敦』と呼称される、ロンドン風の官庁街が明治時代に形成されていったのである。
以降、赤煉瓦建築のロンドン風官庁オフィス街は幾多の変遷と共に、其の後民間へ移行したもののそのまま残置活用されていた、しかしながら残念にも高度経済成長期の時代潮流には抗えず築後76年目にはその役割を終えたのか?昭和43年(1968)には惜しまれつつ取り壊されてしまった・・・・。
Mitsubishi-ICHIGOKAN MUSEUM.
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Entrance&Windows.
ところが2005年頃から再生復元計画案が模索され、J.コンダー博士が設計した赤煉瓦造りの『三菱一号館』が当時場所のまま再生復元工事が行なわれ、用途新たに美術館として甦る事になった、初竣工からは115年経過し取壊されてからも42年経つ。
聴き及ぶ処では当時の保管部材やレンガ等は多少存在したようであるが、復元数量を確保する為煉瓦については中国の製造工場へ制作依頼し、竣工時と同様製法で250万点程の数量を忠実に再現した煉瓦を製造したのだそうだ。
サスティナブル・デベロップ(持続可能開発)は既存の再生を意味するが、其の究極は無の状態からスタートする復元再生なのである。日本の建築業界近代史において、復元再生の専門設計者は望ましい人材が揃えられているとは云い難い、しかし欧米には専門的人材教育機関も存在し専門デザイナー達が数多く輩出されている。
日本にも古式伝統建築界では『宮大工』に代表されるレストア!?関係者の存在は周知である、したがって此の『三菱一号館』が歴史的近代建築レストア職の人材育成におけるマイル・ストーンとなる事を祈念して止まない。また近年開発のヒューマン・スケールを越えた建築群との比較を恐縮ながら敢えて云わせて頂くと、三菱一号館には先人智恵から伝承された『風合や風味や温もり』の雰囲気が醸し出されており、懐かしさと云うよりも現代や未来へ必要な何か?と云う印象を感じたのだが、其の様な体験を感受したのは私だけではないのかも知れない?
用 途 :芸術作品展示美術館・物販店舗・飲食店舗。
事業主体 :三菱地所株式会社。
建築設計 :(株)三菱地所設計。
建築施工 :(株)竹中工務店。
延床面積 :6000㎡/1800坪。
構 造 :赤レンガの組積造建築。
階 数 :地上3階・地下1階。
展 示 室 :20室。
工期年月 :2007年2月着工~2009年4月(プレ・オープン)。
オープン :2010年春季に正式開設。
館 長 :高橋明也氏。
注1/ 鹿鳴館、上野博物館、横浜山手教会、三井家倶楽部、ニコライ堂/ハリストス正教会東京復活大聖堂、島津忠重邸/現清泉女子大学、古河虎之助邸/現古河庭園、などの設計を御担当されたのである。